のぼりをあげたことにより、敵軍に見つかってしまった。
鯉は神の使いの2つの説があった!
そもそも5月の端午の節句に鯉のぼりをあげるのってどういう意味?
鯉のぼりの起源は、中国の五代十国時代にまで遡ります。当時、中国では節句に「端午節」というお祭りがあり、その際に菖蒲湯に入る習慣がありました。
そこで、身体の汚れを払うとされるカワニナが湯に投げ込まれると、カワニナは川を遡って泳いでいくという伝説があり、これが鯉のぼりの原型となったといわれています。
また、鯉はどんな環境でも生きていける生命力が強い魚というところから
どのような環境でも生き抜いていける逞しさや、立派に大きくなって
もらいたい、立身出世という意味も込められています。
また、武家社会では男の子が生まれると家紋入りの旗やのぼりを
たてる習慣があり、庶民は家紋がなかったので
のぼりに縁起物の鯉の絵を描いてたてました。
鯉のぼりは、力強く泳ぐ鯉を模した吹き流しで、男の子の誕生や健康、成長を願うものとされています。
また、鯉のぼりは勇気や力強さ、忍耐力を象徴しており、子どもたちの健やかな成長を願うためにもあげられます。
端午節は、日本の伝統的な行事のひとつで、五月五日に行われます。この日には、男の子の誕生や健康、成長を願って、鯉のぼりや菖蒲の葉、柏餅などが飾られます。また、粽(ちまき)を食べる習慣もあります。
端午節には、鯉のぼりをあげることで男の子たちが健やかに成長し、強い心を持って人生を歩んでいくことを願うという意味が込められています。
日本での鯉のぼりの始まり
日本に鯉のぼりが伝わったのは、江戸時代中期のころです。
当時、庶民の間で鯉のぼりをあげる習慣が生まれ、江戸の川辺で子どもたちが競い合って鯉のぼりを泳がせたことが始まりとされています。
1,000年以上伝わる風習。鯉のぼりをあげない理由は?
鯉のぼりをあげるのは、日本全国の風習と思っていたのですが、
あげない地域も、存在していました。
1.「平家の落ち武者伝説」と呼ばれているものです。
昔、源氏と平家が戦った壇ノ浦の戦い(1185年)がありますが、
その時に敗れた平家の落人が、全国に逃げ延びました。
ある者たちは、日光市の栗山郷にたどり着き、追手に見つからないように
ひっそりと生活していましたが、そこで新たに男の子が誕生しました。
ひっそりと生活はしていましたが、跡取りとなる男の子が生まれたということでささやかながら、余った生地布でのぼりを作り
鯉のぼりをかかげたところ、
敵の追手に見つかり、ひどい目にあってしまい更に奥地へと逃れることとなります。
この時に流れ着いた場所が、栗山郷と言われているそうです。
そして、このことをきっかけに端午節であっても鯉のぼりをあげなくなったのです。
二つ目は、「平将門」(たいらの まさかど)伝説
埼玉県の北西部の矢納地区(神泉村)というところでも
鯉のぼりをあげないという風習があります。
こちらも、戦がらみのお話なのですが、平将門が城峯山(矢納地区)に
いる時に、この地区の家で鯉のぼりをあげたため所在がわかってしまい
戦いに敗れてしまったという言い伝えがあるそうです。
また、この地区で鯉のぼりをあげるとその家に不吉なことが起こる
と、いう言い伝えが代々伝わっているそうです。
三つ目は、大井神社(京都府亀岡市大井町)の伝説
こちらは、御井神(ミイ神)と市杵島姫(イチキシマヒメ)が
大堰川(今の保津川)を亀に乗ってさかのぼって来たのですが、
保津峡付近の急流を登れず、鯉に乗り移って川をさかのぼって来たという伝説です。
大井神社の氏子さんたちは、鯉が神の使いということで
端午節は鯉のぼりをあげないということです。
最近では、鯉のぼりをあげている家が少なくなりましたね。
住宅環境や、電線などの事情もあるようですが、
家族構成がわかってしまうという理由で、鯉のぼりをあげないという家もあると聞きます。
なんだか、言い伝えとは別の意味で人に知られないようにする感じです。
まとめ
昔話って、子供の頃に聞いているとなんだか面白いような、ちょっと怖いような、そんな迷信や言い伝えなどを守っていくことも必要なことかもしれないです。
自分たちの地域にも、何らかの言い伝えや風習が自分では普通と
思っている行事が実は他とは違っていたなんてあるかもしれませんね。
そんな事を、探しながら日々を過ごしていくのも面白いかもしれません。
こんなに、時代が進んでも言い伝えを守り続けるって、なんだかとても
神秘的で素晴らしいことだと思いませんか?
ちょっと、地域の年配の方や自分の祖父母に昔話を聞いてみたくなりました。
私たちも、子供たちに残してあげられる言い伝えがあるといいな。